一方ニャアンはサイド6のイズマ・コロニーにやってきた難民で、居場所がない。女子高生を偽装した姿で運び屋のバイトをしているのも生活のためだ。居場所のないニャアンにとって、自由とは「自分が自分でいられる場所」を得ることだ。そんな彼女は、第5話で“キラキラ”の空間に入り、「私が思うとおりに世界が合わせてくれる」とこれまで感じたことのなかった「自由」を感じる。ただこちらも皮肉なことに、この「自由」を味わったことで、マチュ、シュウジと出来上がっていた「自分の居場所」を失ってしまう。
こうして「自由になったつもりが執着に縛られるマチュ」と「自由を感じたことで居場所を失うニャアン」がすれ違い、第7話「マチュのリベリオン」では「3人の楽しい時間」の終わりが描かれる。シュウジは姿を消し、マチュは強襲揚陸艦ソドンに捕らえられ、ニャアンはキシリアのもとへと誘われる。
第8話「月に墜(堕)ちる」から第10話「イオマグヌッソ封鎖」まではクライマックスの大転換に向けて、マチュとニャアンのドラマがそれぞれ展開されるブロック。
ニャアンの場合は、キシリア配下のパイロットとして自分の居場所を見つけていく様子がストレートに描かれる。一方でマチュは、第9話「シャロンの薔薇」での地球でこの世界のララァとの出会い、第10話でのシャリア・ブルとの対話を通じて内面が変化していく。
第9話「シャロンの薔薇」でマチュが、ソドンを抜け出し地球に行って再びソドンに合流するまでの行動は極めて受け身で、ある意味“ご都合主義”な展開に見える。だが全編を通してみると、ここでのなにものかに導かれて“受け身”であったことが、この後マチュが自分の意思で決断していくことの前提になっていくのである。
この世界でマチュが出会ったララァは、娼館で働く少女だ。彼女は、“向こう側”の世界の出来事を何度も夢見ている。夢の中では、若いジオン軍の将校が彼女を身請けして、娼館の外へと連れ出してもらう。そこから「自由」になった彼女の人生が始まるが、ジオンの将校は白いモビルスーツに殺されてしまう。そんな夢を何度も見ているララァ。
マチュとララァが“キラキラ”の空間で会話をしている、その画面の奥は第4話などと同様に黄色に輝いており、そこに“向こう側”のララァの気配が感じられる。またララァの言葉も途中で「何度やり直してもいつも白いモビルスーツが彼を殺してしまう」と、「夢を見ている」のではなくまるで「ジオンの将校を救うために世界を繰り返している主体」のような言い回しも出てくる。第12話の後にこのシーンを振り返ると、この世界のララァはシャロンの薔薇の少女(=“向こう側”のララァ)と心の深いところでそれとは気付かないうちに通じ合っているようでもある。こちら側のララァは“シャロンの薔薇”についてなんらかの感知をしているらしい発言をするのも、その可能性を感じさせる。
マチュはこちら側のララァを宇宙へと誘う。しかしララァはそれを断る。ララァは娼館に残って「夢で見た彼」が迎えに来るのをここで待つというのだ。しかし彼女はおそらく、そんなことは「夢の中」だけの出来事で、自分の身の上にそのようなことが起きないこともわかっている。しかし彼女は自分の意志で「残る/待つ」ことを選ぶ。なぜならば彼が自分と出会わないということは、彼は死に向かう人生を歩んでないであろうということだからだ。ララァは自分の意思で自分の未来を決めているのである。それこそがこの世界のララァの「自由」なのである。
続く第10話では、シャリア・ブルが「自由」について語る。彼はエネルギー確保のための木星船団に参加した。しかし船団は、技術的なトラブルで地球圏への帰還ができなくなってしまう。そのとき、目標も失い、何もできなくなったことで、シャリア・ブルは「自由」を感じる。そして本当の自由になれたまま死ぬのもいいかもしれないと、拳銃を自分の頭に突きつける。国家への執着から解放され、自らの意志で「死」を選ぶということ。これもまたひとつの「自由」の形である。
こうして第9話と第10話で「自分の意志で未来を選び取ることこそが自由である」というテーゼがくっきりと浮かび上がる。しかも第10話では二丁の拳銃が登場し、「自由」の主題を補強する。「銃(じゅう)」と「自由(じゆう)」をかけるのは、さまざまなところで見られるのはいうまでもない。
ひとつめの拳銃はシャリア・ブルからマチュに手渡される。これは受け身だった第9話の経験を踏まえて、「お前はどのような未来を選び取るのか」という問いかけそのものである。そしてこの銃は、最終的に“向こう側”のララァを殺そうとするシュウジを止めるため、オメガサイコミュのリミッター(それは起動デバイスとしてエグザベに渡されていたものだ)を破壊するために使われる。
2つめの拳銃はキシリアからニャアンに渡される。これはキシリア配下であることがニャアンの居場所になったという絆の証のように見える。だが、最終的にニャアンはこの銃で、マチュを守るためにキシリアを撃つ。それはニャアンが自分の意思で、マチュ(とシュウジ)のいる世界を求めたということでもある。ふたりは自らの「自由」のために銃を使うのである。 こうして物語は第11話「アルファ殺したち」、第12話「だから僕は」でクライマックスを迎える。
ここで中盤姿を消していたシュウジが再登場し、彼の願いが“向こう側”のララァを“殺す”ことにあることが明かされる。
シュウジの理屈はこうだ。
娼館のララァが何度も夢でみたとおり、“向こう側”の世界でララァはシャアを失い、それによって世界が分岐をした。そこでララァは「シャアの死なない世界」を求めて何度も世界を作り出したが、その試みはなかなか成功しなかった。そして“この世界”はようやくシャアが死なない世界を作ることに成功した。
しかし、この世界のシャアはこの世界を否定しようとしている。それは“向こう側”のララァにとって、耐え難いことである。そのため“向こう側”のララァが傷ついたとき、この宇宙は、向こう側の世界を巻き込んで、崩壊してしまう。だからララァが傷つく前に、ララァを殺し、この宇宙を終わらせることで、ふたたびララァが別の宇宙を作るようにする。これまで何度もそうしてきたように。
シュウジが設定上、どういう存在下は映像をみただけではわからない。ただシュウジの執着はこの世界を作ったララァにあることは間違いない。
マチュはシュウジをこの執着から解き放とうとする。自由に憧れ、翻弄された少女が、“こちら側”のララァの強さを見て自由とは何かを知り、今度は少年を解放する立場になるのである。ここに少女の通過儀礼としての失恋が重ねて描かれているのである。そしてシュウジを解放しようとしたマチュが発するのが「ララァはそんなこと望んでいない」という台詞だ。
どうしてここでマチュはララァの代弁者として振る舞えるのか。この台詞の直前に短くいくつか映像がインサートされる。おそらくマチュの脳裏を横切ったイメージということであろう。それは彼女のスマホに送られてきた、送り主不明のメッセージの映像である。最後に映し出されるのは第1話に送られてきた「Let's get the beginning.」(さあはじめましょう)のメッセージである。
どうして台詞前にメッセージの映像がインサートされたのか。これはマチュが、自分のこれまでの歩みが「“向こう側”のララァが自分の意思を伝えようとしていたサイン」であると洞察したからではないだろうか。何かのサインということを感じさせるために第9話は、マチュは受け身な役割を演じたのだろう。
もちろん、メッセージの送り主を作中の情報だけで特定するのは難しい。別の可能性としては、GQuuuuuuXに搭載されたエンディミオン・ユニットであることも考えられる。だが、もしそうならマチュがこのとき洞察するのが「ララァの心情」ではなく、「ララァはそんなこと望んでないと、GQuuuuuuXは言っている」という台詞の形にならないと整合しない。そして、それならわざわざエンディミオン・ユニット自体にシュウジを説得する台詞をいわせることもない。
むしろ娼館のララァがシャロンの薔薇の影響を受けていたと思しきことから考えると、少なくとも“向こう側”のララァの意思がこの世界にこぼれ落ちているというふうに考えたほうが整合性はまだとれるように思う。第10話でイオマグヌッソが宇宙要塞ア・バオア・クーを消し去った後、マチュは「シャロンの薔薇が泣いている」と反応している。そこからも“向こう側”のララァの思いは、無意識の形でこぼれだしているのだろう。