「機動戦士Gundam GQuuuuuuX」“奇妙な夢”の体験から見えた「自由」と「執着」【藤津亮太のアニメの門V 120回】 | 超!アニメディア

「機動戦士Gundam GQuuuuuuX」“奇妙な夢”の体験から見えた「自由」と「執着」【藤津亮太のアニメの門V 120回】

『機動戦士Gundam GQuuuuuuX』は「奇妙にねじれた夢」のような作品だ。画面に見覚えのあるものがでてきても、記憶の中のそれと画面の中のそれは微妙に異なっている。“記憶”の断片が連想ゲームのように紡がれていく本作はその点で、とても“夢”に似ている。“夢”はシリ…

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※以下の本文にて、本テーマの特性上、作品未視聴の方にとっては“ネタバレ”に触れる記述を含みます。読み進める際はご注意下さい。

『機動戦士Gundam GQuuuuuuX』は「奇妙にねじれた夢」のような作品だ。画面に見覚えのあるものがでてきても、記憶の中のそれと画面の中のそれは微妙に異なっている。どこかで見たことがあるようなシチュエーションであっても、記憶の中の映像とは意味合いが異なっている。“記憶”の断片が連想ゲームのように紡がれていく本作はその点で、とても“夢”に似ている。“夢”はシリーズ後半、作中でもキーワードのひとつとして浮上してくるが、本作の視聴体験そのものが“夢”に似ているのだ。 この“夢”の感覚は、この作品を構成する二重構造から生まれている。  

一番下にあるのが「設定のレイヤー」。『GQuuuuuuX』はもともと、TV『機動戦士ガンダム』とよく似た世界から分岐した、もうひとつの世界を舞台としている。そこではTV『ガンダム』では負けたはずのジオン公国が勝利を収めている。このため、この世界の歴史や状況そのものが「知っているものとちょっと異なる」形で成立している。当然TV『ガンダム』とその続編『Zガンダム』に登場したキャラクターも、微妙に立場を変えて登場している。  

この「設定のレイヤー」の上に「映像の記憶のレイヤー」がある。TV『ガンダム』の印象的な映像の見せ方(アブノーマル色のストップモーション、かつてはふのりを使ったという淡いイメージ背景など)や、戦闘シーンの殺陣の組み立てなど、「見たことがあるもの」が巧みに本歌取りされ、画面の中に登場している。これは「作り手の作為」がもたらしたもので、観客に開示されている「設定のレイヤー」とは性質が異なる。しかし、一方でその「映像の記憶」を共有している視聴者にとっては、強烈に作り手との共犯意識を喚起させられる要素でもある。  

視聴者は、この2つのレイヤー越しに『GQuuuuuuX』の物語に触れることになる。重ねられたレイヤーがもたらす「奇妙な夢」のような体験は本作の狙いのひとつであっただろうから、『GQuuuuuuX』を語ろうとすると、どうしてもこの「2つのレイヤー」の話に終始してしまいがちだ。  

しかし、ここではこのレイヤーの存在を念頭におきつつも、そもそも『GQuuuuuuX』という物語が、どういう構造で組立てられていたかと考えてみたい。本作のあらゆるピースは、シャロンの薔薇で眠る少女がこの世界で発したただひとつのセリフ、「ありがとう。こちら側のニュータイプさん」へと繋がっている。  

第1話「赤いガンダム」から第3話「クランバトルのマチュ」までは、(前日譚に相当する第2話「白いガンダム」を含めて)物語のセッティングを行うパート。ここで主人公のマチュ(アマテ・ユズリハ)、ニャアン、シュウジという3人の関係性が出来上がる。また、本作を貫く主題もこのパートの中で示されている。それは「自由」というキーワードだ。マチュは第1話で「宇宙って自由ですか?」と訪ね、最終的に主題歌「Plazma」の「飛び出していけ」という歌詞に合わせて、とともにコロニーの外へと飛び出していく。この展開に象徴されるように、本作はこの「自由」という主題をめぐって進行していく。  

また第1話ではもうひとつポイントとなるキーワードも示される。それはマチュの「私たちを地面に押し付けているこの力は、本物の重力じゃない」という台詞などから示される……「偽物/本物」という主題だ。しかしこちらはキャラクターのドラマを牽引するキーワードではなく、作品の本来的な意味での「世界観」――この作品は偽物/本物という視点で世界を切り取るというその姿勢――を示している。  

第4話「魔女の戦争」から第6話「キシリア暗殺計画」までは、一旦出来上がった3人の人間関係を崩していくパート。ここで各キャラクターの葛藤を通じて「自由」という主題が深められていく。重要なのは「自由」と対になる概念として「執着」が浮上してくるところだ。

第4話は、元連邦軍のユニカム(撃墜王)であるシイコが登場。「戦争に負けても私は負けてない」という台詞のとおりシイコは、引退し結婚・出産したにもかかわらず、赤いガンダムを倒すため、クランバトルという“戦場”に戻ってきた。シイコは、マチュにとって初めて会った“他者”というべき存在。同じ“母”でありながら、実母のタマキとはまったく異なる生き方を選んだ存在としてシイコはマチュに強い印象を残す。  

シイコとマチュの関係性はTV『ガンダム』において、敵として登場したランバ・ラルが、主人公アムロにとって“他者”でありまた実父テムとは違う“父性”を体現した存在として登場することと重なって見える。舞台挨拶などでは、脚本開発の段階で「マチュが地球に降りた後、ランバ・ラルとハモンのように、マチュに影響を与えるキャラクターと出会ったほうがいい」という議論があったことが紹介されているが、シイコもは十分ランバ・ラルに近い役回りであったといえる。  

同時にシイコは勝利への「執着」を持ったキャラクターとしても描かれる。そして死という形でその執着から解き放たれるシイコ。
死の直前、ニュータイプ同士の交感を表現する“キラキラ”の空間の中で、シイコは「ガンダムの向こうに誰かいる」と感知する。そこにシュウジは「僕の願いはひとつだけ」と答える。そこには黄色に染まった“キラキラ空間”が広がっている。シュウジのいう「願い」とはつまり「執着」である。それを知ってシイコは少し笑う。これは「あなたもまた執着に囚われているのね」といった雰囲気の、自嘲も含んだような笑いである。  
死の瞬間、シイコは幼い息子の姿を思い出すが、それは執着から開放され自由になった彼女の魂が還ろうとした場所なのだろう。  

物語の展開を先回りして書いてしまうと、シュウジの執着は向こう側からモビルアーマー・エルメスとともにやってきたララァの存在である。ララァとエルメスは“シャロンの薔薇”と呼ばれ、先の大戦中に行方不明になったため、シュウジはその行方を探している。このシュウジの執着は第5話「ニャアンはキラキラを知らない」でもほのめかされる。  

シュウジが“キラキラ”のグラフティを描いている理由について、ニャアンが「誰かに見せるため?」と聞くと、シュウジは「マチュは知っている」と彼女に視線を送りながら答える。マチュはその言葉と様子にドギマギしてしまう。  

ただここでシュウジが語っているのは、マチュ自身のことではない。第4話で“キラキラ”空間の中でマチュが「ガンダムの向こう側にいる存在=ララァ」を感知しているであろうことを想定してのひとことなのである。この感情のすれ違いによって、マチュが一層シュウジを意識することとつながる。  

マチュは、狭いコロニー=自分の日常から解き放たれたかった。だからこそ非合法のクランバトルに自由を感じてのめり込むのだった。そしてそこでシュウジと彼が見せてくれる“キラキラ”の世界と出会った。しかし、皮肉にもマチュは「自由」に接近しているつもりが、結果としてシュウジに執着するという形で縛られていく。  

こうしたマチュの心の動きはひどく子供っぽい。こうしたマチュの子供っぽさは、タマキへの反抗の仕方や、第5話でニャアンに対抗して服を脱いでガンダムの上に横たわるときの仕草などを積み重ねて描かれている。第7話でアンキーに勝手に幻滅するのも同様だ。  


《藤津亮太》
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