人の命は軽くてナンボ。……などと物騒なことを考えてしまうのは『忍者と殺し屋のふたりぐらし』(『にんころ』)がおもしろいからだ。
草隠さとこは、仲間に流されるまま抜け忍となったくの一。街で行き倒れになったさとこを拾ったのが、女子高生で殺し屋の古賀このは。徹底的にクールな性格のこのはが、なぜさとこと同居することになったかといえば、さとこが使える唯一の忍術「生きているもの以外を木の葉に変える」が、殺し屋家業に使えるからだ。おまけにさとこは家事も得意。このはにとって、さとこは「都合のいい女」なのである。
抜け忍のさとこのもとにはさまざまなくの一が刺客としてやってくる。しかし、彼女たちはこのはの敵ではない。彼女たちはどんどん殺され、どんどん木の葉に変えられていく。しかも第4話「忍者と殺し屋の関係」では、この木の葉で焼き芋まで焼いたりする。このドライな繰り返しが、本作の序盤の基調をなしている。
ギャグ、という言葉が指す範囲はとても広い。ここでは一旦、ギャグにおける「常識の破壊」という要素に注目したいと思う。「みんなが当たり前」と思っていることを、ぬけぬけと破壊すること。それはギャグの重要な要素のひとつといえる。この常識への攻撃性の高さがギャグとユーモアを分ける大きな要素なのだ。
ただ難しいのはこの「破壊の対象」となる常識は、時と場合によって違うし、なんなら状況に合わせて変化していくものだということだ。 例えば「バナナの皮で滑って転ぶ紳士」が古典的なギャグとして成立していたのは、「紳士」にある種の権威があるという常識が世間に共有されているからだ。だからほかに権威のあるもの――例えば1970年代のマンガによく出てきたつり上がった眼鏡をかけた教育ママとか――でも成立する。
ただそのギャグも繰り返されすぎるとクリシェとなり、それそのものが「常識」の一部を形成するようになってしまう。こうなると「クリシェ化していることを笑いに転化する」というメタな方向や、本来の前提である「権威」をオミットし「権威のない存在が転ぶ」ということを笑いとして表現する方向も出てくる。このように「常識」が更新されていく中で、いかに「常識を発見」し、いかに「破壊する」かということがギャグという運動を支えているのである。