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「瀬を早み 岩にせかるる 滝川の われても末に 逢はむとぞ思ふ」百人一首におさめられている、崇徳院による歌です。意味は「川の瀬は流れが速く岩に堰き止められた急流が分かれてしまうが、結局はまたひとつになるように男女の別れもいつかはきっと再びめぐり逢うことだろうと思う」といったところでしょうか。離れ離れになった想い人に向けた、恋の歌です。
競技かるたに人生をかける少年少女たちをアツく描くマンガ『ちはやふる』のアニメ第3期『ちはやふる3』が10月下旬よりスタートします。マンガの連載が開始した(2007~2008年)当時、私は大学で国文学を専攻していました。「小倉百人一首を扱うマンガがあるんだって!」と、学生の間で大変話題になったことを覚えています。それまで百人一首やかるたといえば、どうしても取っつきにくい、あるいは古くさいというイメージがありました。しかし本作によって、その固定概念は大きく覆ったように思います。
『ちはやふる』では当然ながら、競技中のみならず、随所で小倉百人一首が登場します。冒頭で紹介した崇徳院の歌もそのひとつ。崇徳院といえば鳥羽天皇の第一皇子であり、在位中から頻繁に歌会を催すなど和歌の世界に熱心であったことがうかがえます。彼のそうした側面だけを切り取ると、ただの歌好きなオジサマのようですが、実はそうでもありません。この崇徳院は“怨霊”となり、人々を恐れさせた歴史を持っています。
かの有名な保元の乱で後白河天皇率いる官軍と戦った崇徳院は、負けて仁和寺に身を寄せたのち出家。しかし出家の甲斐なく讃岐に配流されます。そして、辺境の地であろう讃岐にて「望郷の鬼」と化し、崩御してしまいます。よほど寂しかったのでしょうか、そうしたことが契機となり怨霊になってしまったようです。
崇徳院の怨霊に関する初出は、『愚昧記(ぐまいき)』という平安末期から鎌倉初期にかけて公家・三条実房(さねふさ)が書いた日記であるといわわれます。それによると当時、世間を騒がせていた延暦寺の強訴など、天下の悪事はすべて崇徳院による疑いがあるとされています。その後も説話や浮世絵など、さまざまな媒体で崇徳院の怨霊譚は語られることになりました。なんだか気の毒なことです。
「小倉百人一首」とひと括りにしてはいるものの、歌を詠んだ人たちにはそれぞれの人生があり、なかには崇徳院のように壮絶な語られ方をする場合もあるのです。『ちはやふる』のかなちゃん(大江奏)ではありませんが、ひと札ひと札に愛着が湧いてくるというもの――。
崇徳院のような波乱万丈な人生とまではいきませんが、『ちはやふる』の登場人物たちも日々困難に直面します。そのたびにもがき苦しみながら困難を乗り越え、高みを目指して成長する姿に涙を禁じ得ません。アニメでもきっと変わらない、そんな彼らの一生懸命な姿を見守りたいと思います。
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