ここから物語は、幸福そうに見えながら微妙なバランスの上に乗っている3人の関係が描かれていく。物語が転調するのは、健介が心臓に重大な病気を抱えていることがわかる瞬間だ。このままでは健介は大人になれるかどうかもわからない。助かるためには心臓移植が必要だという。ここでもうひとつ「健介の死」という「時が満ちていく」ものが登場する。「健介の死」は、見通すことのできないバブルの行く末と違い、もっと具体的な「時が満ちていく」感覚として、阿久津の心を揺さぶる。この話を聞いた直後、パチンコ屋から阿久津が持ってきた風船が弾けるのは、まさにこの具体性ゆえだ。
こうして映画後半は、健介をいかに救うか。阿久津が、不安定であるがゆえに目を背けてきた、“家族”のために、動き出す様子を描く。それは静かな語り口による犯罪映画の形をとる。そこで描かれるのは、時が満ちていく感覚」に導かれて示される、破滅的な一瞬へ向かっていく運命に対して抗って、大逆転を目指す阿久津の闘争である。この終盤の、阿久津の行動や、大逆転に至る仕掛けなどは、『オッドタクシー』の監督・脚本コンビらしく前半の伏線を生かした巧みな語り口で展開され観客をうならせる。
ここで那奈の前半の台詞が生きてくる。「自然に生まれてきたものは、自然に任せなきゃ。そこは神の領域なんだ」。しかしそのままでいたら、健介は失われ、家族を守ることもできない。阿久津は健介の命とその延長線上にある家族の平和だけを守ろうと考えただけだ。しかし、それは「避けられることのできない一瞬」へと向かっていく運命――つまり神の領域――への挑戦だったのだ。
だから阿久津は最後に、ホウセンカの実に自ら手を触れて、それを弾けさせるのだ。何か取り柄があるわけでもない男の、ささやかな、神の領域への抵抗。暗闇の中に飛び散るホウセンカの種は、人生の最期の一瞬に、それが成し遂げられたことを知った阿久津が打ち上げた、“花火”そのものだ。阿久津の人生(ヴイ)のような“花火”がホウセンカなのである。
そして、この口下手な男が口にすることができなかった愛の言葉の代わりに、最後にようやく歌詞入りの「Stand By Me」が流れ、映画を締めくくるのだ。
【藤津 亮太(ふじつ・りょうた)】
1968年生まれ。静岡県出身。アニメ評論家。主な著書に『「アニメ評論家」宣言』、『チャンネルはいつもアニメ ゼロ年代アニメ時評』、『声優語 ~アニメに命を吹き込むプロフェッショナル~ 』、『プロフェッショナル13人が語る わたしの声優道』がある。最新著書は『ぼくらがアニメを見る理由 2010年代アニメ時評』。各種カルチャーセンターでアニメの講座を担当するほか、毎月第一金曜に「アニメの門チャンネル」で生配信を行っている。