『CTIY THE ANIMATION』を見てから原作マンガ『CTIY』を読むと、(よい意味で)強い戸惑いを感じる。これは逆に、原作を読んでいてアニメを見た人も同様ではないだろうか。それぐらい原作とアニメは違う。
表層的には、エピソードの順番が入れ替えられ、ものによっては出来事の一部が省略さている。一方で、動きや音を使ってアニメーションとして盛られた部分も多く、アニメ版はよりメリハリがついた語り口になっている。しかし、原作とアニメ版の違いは、もっと本質的なところにあると感じられる。
どちらも「(舞台である)CTIY市の諸相」を扱っているのは変わらない。原作は、連載1回ごとにその諸相を「ひとかたまりのブロック」として切り出し、数珠つなぎに語っていく。それに対し、アニメはその「ブロック」をもっと細かく砕き、そのピースでモザイクを作り上げるようにCTIY市の諸相を浮かび上がらせる印象だ。アニメ各話が7つほどの短いエピソードの積み重ねでできているのもその印象を強めている。
そもそもアニメ第1話は、原作第1話「人々のCTIY」から始まっていない。この時点から「違い」は明確だ。大きな鳥が登場する導入部分は原作と同様だが、最初のエピソードは原作第3話「マカベ家」、次が原作第22話「友達」へと飛び、短く第7話「203号室」の導入をインサートした後、原作第8話「固焼きそば」、原作第9話「安達太良博士」と続く。さらに原作第6話「泉わこ」を取り上げ、原作第7話「203号室」を挟んで、最後は原作第10話「夢」で締めくくられる。
この構成の変更により、原作にあったブロックとブロックを繋ぐ線は断ち切られた。美鳥が洋食マカベにバイトにくる背景(原作第1話→原作第3話)も、新倉が美鳥に金を借りていたこと(原作第2話→原作第10話)、泉わこがポイントカードを紛失した理由(原作第1話→原作第6話)など、各エピソードを数珠つなぎにしている部分が、矛盾をなくすためもあってあえて省かれることになった。これにより、各エピソードはほぼ原作通りであるにもかかわらず、互いに関連性の薄いバラバラのピースへと変化することになった。こうしてアニメ版は、原作以上に「中心を欠いた」状態で、話数を重ねることになった。
この「中心を欠いたモザイク」としての『CITY』が、映像として見事に表現されたのが第5話だ。第5話は原作第41話「塔」、原作第43話「塔ツー」、原作第44話「バッドタイム」、原作第46話「そろばんと三つ編み」、原作第49.5話「かけ抜ける青春」、原作第50話「絶対安全にーくら」で構成されている。
物語は、美鳥が資産家タナベ家のタナベ菫桜子美に捕らえられ、「おもてなしの塔」に閉じ込められるところから始まる。美鳥はそこで、着流しの老人である“いい人”(という役名)、泉わこと合流し、流れの中で塔を脱出することになる。このエピソードが、第5話のいちおうの縦糸ではある。 これと併せてもうひとつの柱として、秘密の写真が入ったロケットペンダントを耳猫に持ち去られたにーくらが、耳猫をつかまようとする要素がサブの縦糸として通っている。
こう書くと明確な軸があるエピソードのように見えるが、それは途中までのこと。第5話の後半は、画面分が分割され、同時刻に市内のあちこちで起きているエピソードがそれぞれの「窓」の中で繰り広げられる。このとき、美鳥たちのエピソードも、にーくらの様子も、CTIY市のあちこちで起きている様々な出来事の中の「ひとつ」にすぎないものとして扱われる。
画面分割は手間のかかる演出だ。なぜなら例えばあるカットの画面が4分割されていたとすると、これは計算上は1カットでありつつ、実質的に4カット分の作業が必要になるからだ。第5話は、このような手間がかかる画面分割シーンが長く続くにもかかわらず原画は7人。『CTIY THE ANIMATION』は、それまでの各話も原画の人数は数人程度で、そのほかのTVアニメと比べても圧倒的に少ないが、第5話の内容を考えると、7人という少なさは驚異的だ。
本作公式SNSは、第5話の労力の大きさを伝えるため「作画枚数の多さ」をアピールしていた、しかし作画枚数という物量はむしろ結果であろう。ここのすごさの本質は「手間のかかる画面作り」をいとわずに挑戦できるところと、それを少ない人数で実際に支えた原画マンの仕事にある。
この画面分割シーンでおもしろいのは「窓」と「窓」の間に生じる関係性だ。それぞれの「窓」は別の空間を映し出しながらも、携帯電話や、駆け抜ける耳猫、移動する自動車などによって、互いに関係付けられる。本来、時間軸に沿ってリニアに表現されるカット間の関係性が、ここでは画面上で平面的・空間的な形に置き換えられて表現されているのである。これこそが、最初に書いたとおり「CTIY市の諸相」がまさに「モザイク」のように映像化された瞬間といえる。さらに「モザイクとしてのCITY市」は、この後にさらに明確なビジュアルで示される。
なんとか塔を脱出した美鳥たちがそこで見たのは、タナベ家の庭園で、さまざまな登場人物たちが一堂に会してガーデンパーティーを楽しむ風景だった。
原作はこの風景を、手塚治虫もかくやという「見開きを全部使ったモブシーン」として描いた。さらに各キャラクターの行動をおいかけるために、このパーティーの全景の見開きを8ページ(4見開き)続けるのである。 コマの大きさを自由に変えられるマンガと異なり、アニメではこうした演出をで効果的に使うのは難しい。しかし本作はいくつかの工夫を凝らしてそこに挑んだ。
まずそこまでを画面分割を使い、コマ割りされたような小さな「窓」の中で映像を展開した。これにより画面全部を使った瞬間に「大きくなった」という効果が生まれるように仕込みを行っている。
もうひとつは、いきなり画面を大きくしなかったこと。美鳥が出口の扉を開けようとする後ろ姿のカットで「窓」のフレームが広がり全画面になる。しかし、外に出た瞬間の美鳥を捕らえた次のカットは、ほとんどが黒く、驚いている美鳥の顔だけが小さく、雲や泡のような不定形なフレームの中に描かれている。
この後、パーティーを楽しんでいる人々の様子も、グループごとにばらばらに不定形なフレームの中に描かれ、これがいくつも黒い画面の上に現れてくる。フレームは画面内を動きまわり、それぞれが重なり合っていく。同時にフレームたちは徐々に小さくなり、そのかわり登場するキャラクターたちはどんど増えていく。
画面がその不定形なフレームで埋め尽くされたあと、少し変わったトランジションを経て、ようやく原作と同じパーティーの全景を映し出す画面になる。まさに「不定形なフレーム」ごとに描かれていたピースが組み合わさって、モザイクタイルのように、CITY市の人々の全体がビジュアルとして示されたのだ。
第5話で本作の本質が見事に表現されてしまったとも感じるが、まだシリーズはまだまだ」続く。原作を読むと、アニメ版のクライマックスにふさわしそうなエピソードも描かれている――それもまた様々なピースが組み合わさってCITYの諸相が浮かびあがりそうな内容である――ので、今後を楽しみにしながら、シリーズの進む先を注視したいと思う。
【藤津 亮太(ふじつ・りょうた)】
1968年生まれ。静岡県出身。アニメ評論家。主な著書に『「アニメ評論家」宣言』、『チャンネルはいつもアニメ ゼロ年代アニメ時評』、『声優語 ~アニメに命を吹き込むプロフェッショナル~ 』、『プロフェッショナル13人が語る わたしの声優道』がある。最新著書は『ぼくらがアニメを見る理由 2010年代アニメ時評』。各種カルチャーセンターでアニメの講座を担当するほか、毎月第一金曜に「アニメの門チャンネル」で生配信を行っている。