「ぼのぼの」をスクリーンで見られる映画祭― 作品が持つ“普遍性”とは【藤津亮太のアニメの門V 118回】 | 超!アニメディア

「ぼのぼの」をスクリーンで見られる映画祭― 作品が持つ“普遍性”とは【藤津亮太のアニメの門V 118回】

『新宿東口映画祭2025』が2025年5月23日から開催。そこで上映される作品に映画『ぼのぼの』がラインナップ。1993年の公開から四半世紀を超えた今、観客に迫る作品のテーマとは?

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藤津亮太のアニメの門V
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2025年5月23日から、新宿駅東口近くにある2つの映画館(シネマカリテ・新宿武蔵野館)を会場に『新宿東口映画祭2025』が開かれる。そのラインナップの中に、映画『ぼのぼの』(1993年公開)の名前がある。このことをまず喜びたい。2025年にスクリーンで映画『ぼのぼの』が見られるのは、紛れもなく事件である。  

「レア」という点では、やはり同映画祭で上映される、未DVD化作品で配信もされていない『走れメロス』(1992年公開)も見逃せない。しかし大隅正秋監督やキャラクターデザイン・作画監督の沖浦啓之といった文脈でしばしば言及される『走れメロス』に対し、映画『ぼのぼの』は――DVD化はされているし配信でも見られるにもかかわらず――言及される機会は非常に少ない。だからこそ映画館に駆けつけられる人間には、まずはその目でどのような作品を確認してもらいたい。例えば、タイトルバックが終わると聞こえてくる鳥の鳴き声や木々のざわめきに、映画館で見ることの直接的な意味を感じることができるだろう。  

教科書的な確認をすると――映画『ぼのぼの』は、1986年の連載開始とともに大ヒットした同名マンガが原作。ラッコの子ども・ぼのぼのを主人公に、森の動物たちが繰り広げる抑制的なギャグと、子どもらしい素朴な疑問から生まれる思索的な要素が共存するところに魅力がある。映画は原作者のいがらしみきおが監督を務め、自身のストーリーをもとに自分で絵コンテも描いていた。またアニメーション監督として武藤裕治(ムトウユージ)が参加している。『ぼのぼの』は、2016年から現在も継続するTVアニメをはじめ、これまで4回アニメ化されていて、1993年のこの映画が最初のアニメ化となる。  

この原稿では、映画の重要な部分に触れるので、事前の知識なしで映画に臨みたい場合は、現在は配信などで映画を見終わったあとに本原稿を読むことをおすすめする。  

ファーストカットはぼのぼのたちが住んでいる森の全景を見せる大俯瞰から始まる。絵コンテでは、そこからカメラがカットを割ることなく、道を歩くぼのぼのへと“ズーム”(ト書きより)していく。これが実際の画面では描かれた範囲の異なる複数のカットがオーバーラップで繋がれながら、次第にぼのぼのへとカメラが寄っていくように表現されている。1993年はまだフィルム撮影の時代。撮影台に載せられる背景の大きさの限界などの理由から、1カットで寄ることは難しいと判断された結果だろう。この絵コンテと実際の映像の関係から、「原作者・監督がイメージを提出」し、「制作現場が技術的工夫してイメージに沿った絵を作っていく」という本作の制作体制が端的にうかがえる。  

また、いがらしの絵コンテは、各キャラの演技は細かく指示があるが、各カットの尺(秒数)は入っていない。しかし原作マンガでも特徴的な“間”については、ト書き部分にしっかりと秒数で指定がされ、いがらしの“間”についてのこだわりが伝わってくる。おそらく制作現場では、この絵コンテに尺を書き込んで使用したのではないだろうか。オーソドックスな人間キャラクターとは異なる口パクの処理を始め、アニメスタッフが原作のイメージをアニメ-ションに翻訳するにあたって、工夫をこらしたであろう部分は随所に発見することができる。  

こうしたメイキングの解説のような詳細は別の機会に譲るとして、重要なのは、冒頭の8分弱の間に、ぼのぼのを通じてこの映画が何を巡る作品なのかが端的に語られることだ。ただし観客がそのことに気付くのは、映画がだいぶ進行してからのことになる。  

冒頭でぼのぼのは、左右の目を交互に閉じて、視差によって見える風景が変化する様子を楽しんでいる。原作連載開始時からぼのぼのはしばしばひとり遊びを楽しんでおり、このエピソードはぼのぼのというキャラクターの紹介でもある。  

この新しい“遊び”を教えてあげようと、ぼのぼのは友達のシマリスのところへ向かう。歩くうちにぼのぼの頭の中に「楽しいのって、どうして終わってしまうんだろう」という疑問が浮かび上がってくる。これが本編開始からおよそ8分あたりの出来事だ。この時点で本作が「見ること」というモチーフと、「楽しいことはなぜ終わるのか」という問いをめぐる映画であることははっきり示されている。 

この2つの要素は実は「映画を見る」という行為と重なり合っている。観客は映画を一方的に見つめ、そして映画は必ず終わる。本作そのものが、映画の暗喩という側面を秘めているのだ。ぼのぼのが疑問を持った瞬間、カメラはぼのぼのの背後へと回り込み、ぼのぼのが見上げる空へとパンアップする。この様子は観客がスクリーンを見上げる姿に重なって見える。  

本作の物語上の枠組みとしては、“大きな生き物”がぼのぼのたちの森にやってくるという「事件」が設定されている。 

いがらしはこう語る。 「いざこざの渦中を何かが通り過ぎて行くいというので言えば、それは逆なんだ。巨大な何かが通り過ぎて行くその脇で、いざこざする動物たちがいた、ということだよ。どっちにしても『ただ通り過ぎていくだけ』の映画にしようと思っていたのは間違いないけど」(『ぼのぼの絵コンテ集』竹書房)  

ぼのぼのはアライグマくんとシマリスくんとともに、“大きな生き物”を見に行くことになり、そこでは冒険めいたささやかな行動が描かれる。ただしそれはさまざまに点描される、森の動物たちの“いざこざ”の中のひとつに過ぎない。ぼのぼのは、映画を貫く要素は提示したから主人公なのであり、プロットを牽引することで主人公たり得ているわけではない。  


《藤津亮太》
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