<5>は、失踪後にキョウコがとある男性に語る20歳の誕生日の思い出が中心となる。ポイントとなるのは、アルバイト先のレストランのオーナーに「ひとつだけ願いを叶えてあげる」といわれたとき、彼女は何を願ったのか。映画は、オーナーが手を叩いて願いを叶える瞬間、ヒロシと小村、そして自分が過ごした高校時代のイメージが短くインサートされる。つまり彼女の人生を考えるときも、小村が回想した<3>のエピソードは外せないということでもある。
フォルデス監督はキョウコの願いについて「彼女の願いは、恋愛という若い頃の夢を諦めて、結婚するためにまっとうな人生を送ることなのではないか。私はそう考えたんです」(同)と解釈を語っている。
そして現在「彼女は地震に魅了され、地震のニュースを見続ける。それはまるで、彼女の胃の中で地震が起こり、自分の人生を吐き出してしまうようなものです」という事態が起きたのだ、と。
フォルデス監督の読解は確かにそのとおり映画に反映されているが、だからこそもうちょっと似て非なる言葉で言い表せるような気もする。
例えばキョウコの願いを聞いたオーナーは「君のような年頃の女の子にしては珍しい願いのように思う」とリアクションする。そこで「普通の願いごと」の例として挙がるのは「もっと美人になりたい」「賢くなりたい」「お金持ちになりたい」である。個人的な私欲にどこまで忠実になるかはさておき、「まっとうに生きたい」と願うことが、そこまで「君のような年頃の女の子にしては珍しい」ことなのか。
またキョウコの話を聞いていた男性は「願い事は叶ったのか。その願い事をしたことを後悔していないか」と彼女に尋ねる。
キョウコは最初の質問については「イエスでありノー」と答える。理由は、人生は先が長いし、物事の成り行きを見届けたわけではないから。そして次の質問について「自分は自分以外にはなれない」というような台詞で返す。(原作は語り手の設定が異なるので、この台詞を含みながら少し異なる会話が展開されている)。この言葉を踏まえると、「まっとに生きる」というより「私らしく生きる」という言い方のほうが、より映画全体の中にうまくはまるように感じる。もちろん「まっとうに生きる」と「私らしく生きる」は直接衝突する概念ではない。お互いがお互いを含むような、そういう部分にキョウコの願いがあったということだろう。