映画は、夢の中で小村が螺旋階段を降りていき、地下の回廊で地震に襲われるところから始まる。村上作品において当然そうであるように、本作にとっても「夢」は非常に重要な空間として扱われている。フォルデス監督は、本作を「目を覚ました人々の話」(パンフレット)と語るが、それを踏まえつつ、本稿では、あえて「目を覚ます」ということより「眠り」を重視したい。なぜならフォルデス監督が語る「覚醒」は、本質的には「夢」の中で起きているからだ。
小村が目を覚ますと、キョウコは午前3時にもかかわらず震災を報じるテレビを見続けている。5日間眠りもせずテレビを見続けていたキョウコだが、失踪する直前のカットではソファに横になっている姿が描かれている。
このシーンを見ただけではわからないが、映画を見ていくと、ここで寝ているキョウコは、高校時代のキョウコが語った「めくらやなぎの花粉によって眠り続ける女」と連続していることがわかる。そして、目覚めたキョウコは失踪する。
キョウコは夢の中で何かに「覚醒」したのではないだろうか。短編では失踪の理由は宙吊りにされたままだが、本作はこの後、<3>でキョウコの高校時代のエピソードが、<5>で20歳の誕生日のエピソードが語られることで、失踪直前のキョウコの心情が想像できる仕組みになっている。
一方、取り残された小村はキョウコの置き手紙を読む。そこには小村との生活を「空気のかたまりと一緒に暮らしているみたいだった」と書かれていた。この言葉をきっかけに、小村の彷徨が始まる。それはキョウコを探す旅のようでもあり、小村が自分自身を探す旅のようでもある。短編を組み合わせたことで、自分の欠落した何かを探し求める、ヒーローズ・ジャーニーの一種の変奏という趣がこの映画にはある。
小村がまず出会うのは、甥のジュンペイだ。ジュンペイは聴覚に問題を抱えており、通院している。バスの中でジュンペイは小村に「今までで一番辛かったことは?」と尋ねる。
フォルデス監督はここについて「小村は妻に去られたばかりで、これが一番辛い。でも、彼はそれを口に出しません。でも、そこからいろいろなことを思い出すわけです。この少年の質問が、小村の記憶のトリガーのようになっているのです」(同)と説明する。
ここで小村が思い出すのが、高校時代の友人でキョウコの恋人だったヒロシの思い出だ。入院中のキョウコのもとに、ふたりでバイクに乗ってお見舞いにいったあの日の記憶。そこでキョウコは、丘の上の一軒家で、めくらやなぎの花粉をハエによって耳の奥に運ばれ、眠り続ける女の話をする。そこには、女を助けようとする男の姿もある。
ヒロシがそれは自分だというと、キョウコはそれをやんわり否定する。キョウコに淡い思いを抱いている小村は、その仲の良さそうなやりとりを静かに見ている。一連のやりとりの合間に、屋外からのショットは挟まれ、3人がそれぞれがバラバラの窓枠に収まっている絵が登場し、恋愛と友情で結ばれながらも、どこかバラバラな3人の思いが視覚化されている。
しかしヒロシはその後、バイクの事故で死んでしまう。<5>ではその後、キョウコは大学に進学し東京で暮らすようになる。彼女は小村と再会し、結婚することになったということが説明される。
死んだ恋人・友人と、残された女と男。もともとの短編が長編『ノルウェイの森』につながっていくものであったこともあり、この構図は『ノルウェイの森』と共通している。本作のラストシーンもどこか『ノルウェイの森』を思わせるところがある。そこを踏まえると、「一番辛かった」こととは、キョウコの失踪にとどまらず、その向こうで思い出された「ヒロシの死」と考えると、よりクリアにならないだろうか。
繰り返し登場することはなく、関係したふたりも言及しないが、大前提として設定された「ヒロシの死」。そういう意味では本作は、「ヒロシの死」を虚の場所としてしまったことの混乱を描いているとも読解できる。