本作は、2つの締めくくりがある。ひとつは、サチのリクエストをきっかけに、自分たちの歌が入ったCDを買って、4人がベンチのある高台に集まるシーン。ここで4人は、まるで世に出ることのなかった2曲目を揃って歌う。その姿はまるで卒業式の校歌斉唱のようだ。
もうひとつは、先述のとおり数年後に、アイドルとなった東と、それぞれの人生を歩んでいる3人が再会をする終幕である。先程のサチとともに高校生の4人が映った写真を前に、東の「夢を叶えることの喜びは、叶えた人にしかわからない。あのときの私、ありがとう」というモノローグで締めくくられる。
高校時代の締めくくりは、端的に言うと、自分たちを振り回した東を残りの3人が許すという和解のエピソード。若い頃の思い出したくない思い出をそのまま抱えて生きていくのも人生だろうとも思うが、本作は、感情のぶつかり合いもすべて「いい思い出」として昇華する。
東に振り回された3人が、「いい思い出」にしたいということは、かなり剛腕な展開と感じなくもないが、そういう自己肯定化は世間のいたるところにあるものなので、わからないでもない。一方で東については、3人を振り回したことで、自分が「諦めが悪いこと」を確認したというふうに描かれる。つまり東は、なにも変わっていないのである。結果、友情と名乗る東の打算もまたここで肯定されていく。
この「諦めが悪い」を踏まえて最後に、ようやくアイドルになった東の姿が描かれる。しかしそれもやはり、アイドルのパフォーマンスを通じて、自らが積極的に輝いたり、ファンを笑顔にしたりする具体的な様子ではない。アイドルになった東の姿として描かれるのは、(おそらく)テレビのインタビューに、高校時代の出来事をそつなく答える様子なのである。原作小説では、東が観覧席に熱心なファンの姿を認めるくだりがあるが、映画は当然ながらその描写を映像化することはない。
「諦めなかったこと」のゴールが、パフォーマンスやそれにまつわるような姿でなく、普通に芸能人をやっている姿であること。つまりコレが彼女のなりたかった“アイドル”というものの実体と理解するのが妥当だろう。
ここにきて、アイドル描写が具体性を欠き、「光る存在」「人を笑顔にする」といった言葉が、言葉でしか語られなかった理由がわかる。それらは本当に抽象的な言葉でしかなかったのだ。東の欲求は、芸能界という世界を自分の居場所にしたいということだったのだ。ここがひとつのゴールである以上、“アイドル”が映画の中で「不在の中心」として扱われるのは当然のことといえる。
原作小説で東はこの取材を受けながら、自分という存在を“嘘のベール”でどこまで覆うのかについて考えている。そして「アイドルの使命は自分のパーソナルプロデューサーを担い続けることだった」と続く。
この記述と映画の描写を合わせて考えると、本作における“アイドル”とは何か、がようやく本作の描写の中から浮かび上がってくる。それは「アイドルとは自意識である」というものだ。この自意識を持つもの、手放さなかったものだけがアイドルたりえて、芸能界に居場所を得ることができる。「不在の中心」を巡ってさまざまな描写を積み重ね、その果てに「アイドルとは自意識」であるというテーゼを浮かび上がらせたのが本作なのだ。だから、ラストに東が、サチではなく、自分自身に感謝するのは、彼女にとってとても自然なことなのだ。
[藤津 亮太(ふじつ・りょうた)]
1968年生まれ。静岡県出身。アニメ評論家。主な著書に『「アニメ評論家」宣言』、『チャンネルはいつもアニメ ゼロ年代アニメ時評』、『声優語 ~アニメに命を吹き込むプロフェッショナル~ 』、『プロフェッショナル13人が語る わたしの声優道』がある。最新著書は『ぼくらがアニメを見る理由 2010年代アニメ時評』。各種カルチャーセンターでアニメの講座を担当するほか、毎月第一金曜に「アニメの門チャンネル」で生配信を行っている。