「葬送のフリーレン」断頭台のアウラはただの噛ませ犬? 妙にリアルな"分かり合えなさ" | 超!アニメディア

「葬送のフリーレン」断頭台のアウラはただの噛ませ犬? 妙にリアルな"分かり合えなさ"

敵キャラにスポットを当てる「敵キャラ列伝 ~彼らの美学はどこにある?」第41弾は、『葬送のフリーレン』の断頭台のアウラの魅力に迫ります。

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(C)山田鐘人・アベツカサ/小学館/「葬送のフリーレン」製作委員会
  • (C)山田鐘人・アベツカサ/小学館/「葬送のフリーレン」製作委員会
  • 『葬送のフリーレン』第9話「断頭台のアウラ」先行場面カット(C)山田鐘人・アベツカサ/小学館/「葬送のフリーレン」製作委員会
  • 『葬送のフリーレン』第10話「強い魔法使い」先行場面カット(C)山田鐘人・アベツカサ/小学館/「葬送のフリーレン」製作委員会
  • 『葬送のフリーレン』第7話「おとぎ話のようなもの」先行場面カット(C)山田鐘人・アベツカサ/小学館/「葬送のフリーレン」製作委員会
  • 『葬送のフリーレン』第9話「断頭台のアウラ」先行場面カット(C)山田鐘人・アベツカサ/小学館/「葬送のフリーレン」製作委員会
    アニメやマンガ作品において、キャラクター人気や話題は、主人公サイドやヒーローに偏りがち。でも、「光」が明るく輝いて見えるのは「影」の存在があってこそ。
    敵キャラにスポットを当てる「敵キャラ列伝 ~彼らの美学はどこにある?」第41弾は、『葬送のフリーレン』の断頭台のアウラの魅力に迫ります。

『葬送のフリーレン』は、勇者一行が魔王を倒した後の物語だ。いうなれば、物語の後の物語である。

しかし、魔王がいなくなっただけで全てが丸く収まるわけではない、社会はその後も続き、人は生きていかねばならない。その何とも味わい深い余韻が、全編を通じて感じられるのがこの作品の魅力だろう。

社会が続くなら、平和を乱す連中もそれなりに残っている。行く先々でフリーレンたちは、冒険の後始末のように魔族を始末していく様が描かれるが、中でも鮮烈な印象を残したのが、“断頭台のアウラ”だろう。

SNSでも人気が高い(?)キャラクターだが、魔王が倒れた後も、平和がすぐには訪れず、分かり合えない存在がいるということを象徴するアウラの存在は、この作品世界に深みを与えている。

(C)山田鐘人・アベツカサ/小学館/「葬送のフリーレン」製作委員会

■話の通じない相手としての魔族

フリーレンたちとアウラたちの邂逅は、北川諸国のグラナト領での出来事だ。勇者ヒンメルに一度は敗北したアウラだが、魔王が倒れた後も息を潜めて生き残っており、虎視眈々と機会を伺っていた。そして力を取り戻し、アンデッドの軍勢を率いて再びグラナト領を侵攻せんとしている。勇者の冒険の後にも各地に火種がくすぶり、争いは繰り返される。この物語はそういう世界観なのだということを強く実感させるエピソードだ。

アウラとその配下たちが強烈な印象を与える理由はそれだけではない。彼らは言葉を操り、人間たちとの和平交渉に臨もうとしている。しかし、フリーレンはそんな彼らを問答無用に屠ろうとする。

(C)山田鐘人・アベツカサ/小学館/「葬送のフリーレン」製作委員会

フリーレンは、魔族は話の通じる相手ではないと言う。彼らにとって人間は捕食対象であり、人間を欺くためだけに言葉を使っているのだと。

そうは言ってもまずは話くらいは聞くべきだと、「良心的な」視聴者・読者は考えるだろう。いくらなんでもいきなり殺すのは良くない、平和への第一歩は対話であるべきだと。しかし、過去に勇者ヒンメルはそのように考え、幼い魔族を殺さずにいたら、新たな犠牲者を出してしまったことがあった。

いくら世の中が平和になっても、分かり合えない連中がいる。フリーレンは、人間と魔族は絶対に相容れることのない存在であると達観している。これは、1000年以上生きてきたフリーレンが言うから説得力があることだが、それを裏付けるかのように、アウラとその配下である首切り役人たちは、人間たちをことごとく欺いていく。

この「絶対に分かり合えない敵役」という存在は、本作が魔王を倒した後の平和な世の中だからこそ、余計に染みる。平和が実現しても、このような存在が消えることはない、だから、争いがなくなることはない。少年マンガ原作の作品としては珍しいほどに、そんな諦念のような感覚が描かれているのだ。

(C)山田鐘人・アベツカサ/小学館/「葬送のフリーレン」製作委員会

■魔法に対する価値観の違い

魔族と人間との価値観の違いが、魔力に対する考えに端的に現れているのも興味深い点だ。フリーレンは自身の魔力量を抑えて偽装することでアウラを倒す。この魔力量を抑えるということが、魔族にとっては卑劣な行為であり、発想すらしないのだと描かれている。

魔族にとって魔力量が自分の力量を示すバロメーターであるから隠すなどということに意味はなく、魔法を愚弄する行為なのだそうだ。正直、理屈はわかっても、人間である視聴者にそのこだわりは共感しにくい。ここにも人間と魔族の「分かり合えなさ」が描かれており、フリーレンはまさにその点を付いてアウラを自害に持ち込む。

アウラは自分の実力を過信して、彼我の実力差に気づけないであっさり倒される「咬ませ犬」的な描かれ方をしているが、これもまた人間と魔族が「分かり合えなさ」の表現となっている。魔法というものに対して、あまりにも両者の価値観が違いすぎるのだ。

こんなにも分かり合えない連中がいるということをはっきりと描く少年マンガは、結構レアではないか。これは単純な勧善懲悪の描写とはやや異なるし、日本の少年マンガは戦った敵が後に仲間となる展開も珍しくない。味方にならないまでも、敵には敵の信念や正義があることが描かれることも多い。そういう日本のマンガは、社会の複雑さの表現として優れているのだが、『葬送のフリーレン』の分かり合えない存在への諦念もまた、社会の複雑さを別の方向性から描いていると言える。

2023年の現実世界では、分かり合えない者同士がいがみ合い、争ってしまっている。確かに、世の中、分かり合うことは難しい。むしろ、フリーレンのように達観した生き方は、今の時代のリアルなのかもしれない。



(C)山田鐘人・アベツカサ/小学館/「葬送のフリーレン」製作委員会
《杉本穂高》
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