片渕須直が監督・脚本を手掛けた長編アニメ映画『この世界の片隅に』が終戦80年・すずさん100歳の節目を迎える今年、9年ぶりに全国の映画館でリバイバル上映中だ。2025年8月7日には東京の109シネマズプレミアム新宿で公開記念トークショーが実施され、すずの夫・北條周作役の声優を務めた細谷佳正と片渕監督が登壇した。

『この世界の片隅に』は戦時中の広島・呉を舞台に、大切なものを失いながらも前を向いて生きていく女性・すずの日々を描いた物語だ。広島県出身のマンガ家・こうの史代の同名マンガを原作に、片渕監督が徹底的な考証のもと約7年の歳月をかけて2016年にアニメ映画化した。公開当初は63館でのスタートながら、累計動員数は210万人、興行収入27億円を突破し、累計484館で上映される社会現象となった。
2016年の劇場公開以来、改めて細谷と片渕監督が並んで観客の前に立つのはこれが初めてとなる。「まるで昨日のことのような感覚もありつつ、確かに時間が経ったことも実感する」と語るふたりのやりとりは、作品への深い愛情と、“すずと周作”が時を超えて生き続けているかのような思いを感じさせる。
細谷は冒頭、「広島の尾道出身なので、小学生の頃、平和学習で戦争映画を観た経験があった」と自身の原点に触れつつ、「この作品がそうした平和教育の一助になるような映画になればと願って演じてきました。それが9年経って、終戦80年の節目にまたこうして劇場で観ていただけるとは、当時思い描いていた未来が実現したようで嬉しいです」と笑顔を見せた。
これに片渕監督も応じ、「戦争の時代がどんどん遠くなっていく中で、何とかその記憶をつなぎとめたいという想いがこの作品には込められている」と語る。「呉や広島の町に当時どんな暮らしがあったのかを、できる限り忠実に描こうとした。こうして映画が9年経っても“現役”でいられるのは本当にありがたい」と、再上映への感慨を述べた。
アフレコ時のこだわりについても、貴重な裏話が語られた。本作のアフレコが始まったのは2016年5月。最初にマイクの前に立ったのは、周作役の細谷と円太郎役の牛山茂だった。一方、すず役ののんが収録に臨んだのは約3ヶ月後の8月。劇中で夫婦を演じたふたりのアフレコには、実に3ヶ月の時間差があったことになる。
細谷は「アフレコをした頃は、ちょっと生意気な青年だったので・・・(笑)」と笑いつつ、「“人が自然とそこに存在しているような芝居がしたいです”という話をさせていただきました」と振り返る。「当時はまだすずさん役が決まっていなかったのですが、きっと女優さんがされるんじゃないかと思っていて。女優さんの芝居はナチュラルで、声優の芝居は“ちょっと盛ってる”って思われたら嫌だなっていう、若いなりのプライドがあって。まだ会えないすずさんを想像しながら、“普通な会話のやり取りになれたら”という意識でやらせていただいてました」と真摯な表情で語った。

片渕監督は「その細谷くんの“自然にそこにいる人”という芝居の基礎があったからこそ、他のキャストがその空気感を受け継げた」、「細谷くんの声が全体のリアリティを支える大きな軸になった」と話す。また、片渕監督は「ガンマイクを用いて、演者の“息遣い”を拾いながら収録した」と明かした。通常の声優収録とは異なり、マイクが見えない状況下で“まるでその場に存在するように”演じた細谷も、「信頼されていると感じた」、「細かなニュアンスもすべて汲み取ってくれる環境だった」と語る。
また、印象的なシーンの話題になると、細谷は「年齢を重ねて気づくことがたくさんあった。9年前とは違う感情が湧き上がった」として、改めて心を揺さぶられたのが、すずが終盤に周作に向けるあのセリフ――「ありがとう。この世界の片隅に、うちを見つけてくれて」であったと述べた。
「聞いた瞬間、ちょっと涙が止まらなくなっちゃって……」と声を詰まらせた細谷は、「あの時代って、教育がガチガチだったと思うし、女性が今のように人生を自由に選べる環境ではなかったと思うんです。言われるがままお嫁に行って、流されるがままに生きて、それで戦争でも傷ついて、大切なものをなくして。それがあった後にあのラストシーンを見ると、“何が正しくて、どう生きるべきか”っていう混乱があったと思うんですけど、その中で確信を得た言葉――周作に出会えて、あの言葉を言うっていうのは、本当に尊いなと感じます」と語る。
これには片渕監督も「すずさんはそこで初めて、自分が住む場所と、これから歩んでいく道を見つけたという感じですよね」と静かに頷いた。「今もちょっとうるっときてるんですけど、思い出すとやばいですね」と語る細谷の姿に、時を経てなお作品に寄り添い続ける誠実な想いがにじんだ。

終盤には、観客の笑いを誘う“もしも”の話も展開された。公開から9年、もし作中でもすずと周作が同じ年月をともに過ごしていたとしたら?という話題に触れた細谷は、先日の舞台挨拶で、のんがすずさんになりきって語った言葉を引き合いに出しながら、「すずさんとは夫婦なので、子どもが16歳になって“物を言うようになった”っていうのは、当然本当ですね」と笑いを交えながら回答する。片渕監督は「たぶん周作はすずさんの尻に敷かれているんじゃないかな」と語り、会場は和やかな笑いに包まれた。
最後に、細谷は「情報過多な今、新しいものがどんどん生まれていく中で、この映画は“消費されるもの”というより、“心に残る作品”という印象が強くて。そういうものに関われて本当に光栄だなと思っています。多くの方に劇場で観てほしい作品です」と力強く語る。
片渕監督は「“そこに本当に人が生きている”と感じられるような世界をつくりたいと思って制作しました。呉や広島の街に立つすずさんや周作さんの息遣いや、ご飯の炊ける音、飛行機の飛ぶ音――そんな日常のすべてが重なり合って、ひとつの“世界”になっていく。それを、細谷さんをはじめとする多くの方々の力によって実現できたと感じています。9年経ってもなお、映画館で観てほしい作品だと心から思っています。何十年先にもこの作品を観ていただけたら、それは僕らにとって何よりの喜びです。すずさんと周作さんも、きっとその世界の中で、これからもずっと仲良く暮らし続けているはずです。」と締めくくった。
[終戦80年上映] 映画『この世界の片隅に』公開記念トークショー
■日 時:8月7日(木)20:55~21:15※上映後舞台挨拶
■場 所:109シネマズプレミアム新宿(東京都新宿区歌舞伎町一丁目29番1号 東急歌舞伎町タワー9F、10F)
■登壇者(敬称略):細谷佳正、片渕須直監督
(C)2019こうの史代・コアミックス / 「この世界の片隅に」製作委員会