藤野と京本のこの別れのシーンまで見たところで、冒頭の空からカメラが降りてくるカットの意味合いがようやく腑に落ちてくる。
本作は、宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』の変奏なのではないだろうか。同作は、気弱で孤独な少年ジョバンニと親友のカムパネルラが銀河鉄道に乗り、ともに南十字へと向かって銀河の旅をしていく物語である。ジョバンニとカムパネルラは、「どこまでも一緒に行こう」と誓い合っているが、やがてふたりは別れることになる。それはふたりが求めていた「本当の幸せ」が異なっていたからだ。
カムパネルラが突然姿を消す前には、こんな描写がある。
「あすこの野原はなんてきれいだろう。みんな集ってるねえ。あすこがほんとうの天上なんだ。あっあすこにいるのぼくのお母さんだよ」
カムパネルラはにわかに窓の遠くに見えるきれいな野原を指して叫びました。ジョバンニもそっちを見ましたけれども、そこはぼんやり白くけむっているばかり、どうしてもカムパネルラが云ったように思われませんでした。
(中略)そして「カムパネルラ、僕たち一緒に行こうねえ」ジョバンニが斯う云いながらふりかえって見ましたら、そのいままでカムパネルラの座すわっていた席にもうカムパネルラの形は見えず、ただ黒いびろうどばかりひかっていました。
【引用 】宮沢賢治著『銀河鉄道の夜』青空文庫
このようにジョバンニは取り残される。
カムパネルラのいう「ほんとうの天上」がジョバンニには「白くけむっているばかり」で、彼が言った「ほんとうの天上」には見えないのである。こうしてカムパネルラは銀河鉄道から姿を消し、ジョバンニはひとり残される。藤野と京本の別れもまた、これと同心円状の「進むべき道」の不一致として描かれた。
ここで思い出すのは、この原作をアニメ映画化した1985年の『銀河鉄道の夜』(杉井ギサブロー監督)の冒頭が、やはり「空からカメラが降りてくる」という導入だったということだ。同作では、まるで振り子のように触れながら“何か”が地上へ舞い降りて、そこから物語が始まる。よく考えると、『銀河鉄道の夜』も『ルックバック』も、原作は先生の第一声から始まっていた。そして、その前に天から降りる“何か”を加えたのは、アニメ側の創意なのである。
ここで降りてきた“何か”は“何か”でしかないのだが、あえていうなら“運命”のようなものということになるだろうか。この“何か”の到来により、ジョバンニは銀河鉄道に乗ることになり、藤野は京本と出会うことになるのだから。
『ルックバック』は映画にされることで、この“運命”のような“何か”の存在がより強調される。それが4コマ漫画のフレームが描かれた短冊である。冒頭、これがまるで何かを宿らせたかのように震える様子が描かれるが、その後も、まるで運命の導き手のような動きを見せる。
まず、卒業式の日、京本の家に入ってしまった藤野が、即興でいつもの短冊に描いた4コマ。それが、風に運ばれたか、すっと京本の部屋のドアの下の隙間をくぐって入ってしまう。原作は風に運ばれた偶然に見える度合いが高い調子で描かれているが、映画ではむしろ“何か”がその偶然を起こしたように見える度合いが高く描かれている。
こうして藤野と京本は「漫画家を目指す」という同じ“鉄道”に乗ることになったのだ。そして“鉄道”は、田舎道という線路の上を、下手方向に向かって一直線に走っていく。
4コマ漫画の短冊は、本編のクライマックスで、再び登場する。ここでは、人気漫画家になった藤野が、破り捨てた4コマの短冊がやはり京本の部屋ドアの下を、何かに導かれたように通り抜ける。そして今度は逆に、別の短冊が、やはりドアの下をくぐって藤野のもとへと届く。そして、それが藤野と京本の人生にとってとても重要なものとなる。冒頭に置かれた、カメラの視線で降下してきた“何か”は、このように映画の中で重要な役割を果たしたのだった。